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赤十字とアンリ・デュナンのお話

誰もが一度は見たことのある
赤十字のマーク


「戦時や災害時に人道的な活動を行う機関」としてまず頭に浮かぶものは何でしょう。大半の人は赤十字のマークを思い浮かべると思います。赤十字国際委員会(ICRC, International Committee of the Red Cross)は今から約150年前の1863年にスイス・ジュネーヴで創設され、人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性という7つの基本原則の元に世界中で人道・支援活動を行っています。
白地に赤い十字マークの赤十字の旗は、赤地に白い十字のスイス国旗とそっくりです。それもそのはず、赤十字社の創設者はアンリ・デュナンというスイス人で、赤十字旗は彼の母国スイスの国旗の色を反転させたものだと言うことです。

Henry Dunant

アンリ・デュナンは1828年5月8日にスイス・ジュネーヴで生まれました。父は商業の傍ら孤児や前科者の福祉に携わり、母は由緒ある家系の出身でやはり慈善事業家。長男アンリと2人の兄弟、2人の姉妹は厳しいカルヴァン派の教育を受け、幼いころから両親の福祉事業を見て育ちました。デュナンは子供の頃に父とトゥールーズを旅した際に、苦しみながらガレー船を漕ぐ囚人の姿を見て、その光景が強く心に焼きついたといいます。成長したデュナンはカルヴァン大学に入学したものの、成績が悪かったため中退し、銀行業務の職業訓練を受けて銀行員になりました。その間もデュナンは慈善事業に関わり、自由時間や週末には囚人や貧しい人々を訪ね、自ら社会福祉団体を立ち上げるなど幅広く活動を続けました。1853年、デュナンはジュネーヴ商社スイス植民地セティフ支店との契約でアルジェリア、チュニジア、シチリアを訪れます。この旅行でデュナンは多くの知識人と出会い、旅で得たインスピレーションを初の著書に綴りました。デュナンは植民地の人々の生活改善に貢献しようと思い、1856年にフランス領であったアルジェリアで土地の使用権を獲得して、2年後にモン・ジェミラ製粉金融工業会社という製粉会社を設立します。しかし土地と水の使用権が不明確であったり、植民地の官庁が非協力的であったりと経営が潤滑に進まず、1年後、デュナンは当時フランスの支配者であったナポレオン3世に直談判しに行く決心をします。

ナポレオン3世はこのときイタリア統一戦争中の北イタリア・ロンバルディアでサルデーニャとピエモンテの連合軍側でオーストリアと戦っていました。ナポレオン3世の陣地はガルダ湖近くのソルフェリーノという小さな街で、デュナンは皇帝に直接お目にかかるために、「再建されたカール大帝の帝国、又は神聖ローマ帝国、それを再建された皇帝ナポレオン3世陛下」に宛てた称賛の手紙を携えてこの街を目指します。1859年6月24日夕方、デュナンはソルフェリーノ近郊にたどり着きました。サルデーニャ・ピエモンテ・フランス連合軍とオーストリア軍の戦いは既に終結していたものの、戦場には3万8千人の兵士が負傷したり瀕死の状態や既に息絶えて横たわっています。助けを伸べる者は誰もいません。このすさまじい光景を見たデュナンは激しい衝動に襲われ、とっさに自らその場にいたオーストリアの民間人を指揮して救護班を作ります。その後彼はソルフェリーノのすぐ近くの街カスティリョーネ・デッレ・スティヴィエーレから救護を要請し、街の教会を仮設病院にして負傷兵の看病ができるよう組織しました。

救護する人員も、医学の知識も、薬も食事も、何もかもが足りませんでした。しかしデュナンはこのとっさの救護活動中、あることに気が付きました。救護要請に応じた人々は、兵士の国籍や属する隊、敵味方、等級などを区別することなく黙々と手当をしているのです。民間の女性たちが「Tutti fratelli(イタリア語:みんな兄弟)」を合言葉に救護を続けています。この合言葉の下に、デュナンはフランス軍の捕虜になっていたオーストリア軍の軍医の力を借りることに成功し、自費で救急用品を調達して仮設病院をつくります。しかし残念ながらデュナンと民間ボランティアの働きにもかかわらず、多くの負傷者が命を落としました。

この苦い経験の後、デュナンはナポレオン3世には会わずにジュネーヴに帰ります。母の勧めでしばらく休養した後、彼はパリへ旅立ちます。1860年、デュナンはソルフェリーノの戦いでの人道的功績を称えられ、サルデーニャ王ヴィクトル・エマニュエル2世から勲章を授与されます。ところでデュナンこの年の始めからアルジェリアの製粉会社のための資金繰りに悩んでいました。また、ソルフェリーノでの経験を忘れないように「ソルフェリーノの思い出」という本の執筆にも取り組み、2年後に自費出版することになります。執筆中、彼の脳裏にアイデアが浮かびました。「中立と奉仕を基盤に、あらゆる国で戦争の際に負傷者を助ける組織が作れないものだろうか。」

デュナンはその後ヨーロッパ中を旅して回ります。彼の本は好評を得て2版、3版、翻訳版が出版され、各国で読まれるようになりました。ただフランス軍部は反フランス的な著書としてこの本を批判し、意外なことにナイチンゲールも「そのような組織は奉仕ではなく政府の事業として行われるべき」と批判的な意見を述べました。ジュネーヴの法律家で「ジュネーヴ公益団体」の会長であるギュスタフ・モアニエはデュナンの著書を読み、彼のアイデアを団体会員集会のテーマに取り上げ、過半数の賛成を得て、そのような人道支援活動機関の実現に向けて乗り出すことを決定しました。デュナン自身も発足促進委員会の一員となり、モアニエ、アンリ・デュフォー将軍、ルイス・アッピアとテオドア・モノアールの両医師が最初の委員会メンバーでした。そして1863年2月17日の第1回集会の日が、今日まで続く国際赤十字委員会発足の日となりました。


(スイスの国際赤十字委員会発足150周年記念切手のギュスタフ・モアニエとアンリ・デュナン)

しかし間もなくデュナンとモアニエの間に意見の相違が生じるようになりました。中立を盾に負傷者や救護隊を守る考えをつき通すデュナンに対し、不可能だ、その考えは捨てろと言うモアニエ。デュナンは単独でヨーロッパ各国を回り、政治や軍の要人と会見して理想の実現を図り、それがますますモアニエを刺激することになります。デュナンはモアニエの許可なくベルリンの国際統計会議に出席し、知り合ったオランダ軍医と共に覚書を作成し、その後ドレスデンでザクセン王ヨハンに謁見して同意を求めるなど自分の理想追求を進めました。

1863年10月、16カ国が参加してジュネーヴで国際会議の前の会合が開かれ、戦場で負傷兵を助けるための意見交換が成されました。デュナンはモアニエの策略で委員会の一員ではなくただの書記として出席することになりました。1年後の1864年8月22日にはスイス連邦主催で12カ国が参加してジュネーヴ会議が開かれ、ジュネーヴ条約が調印され、国際人道支援活動や、スイス国旗の色を反転した赤十字の旗を救護員の目印とすることなどが取り決められます。ここでのデュナンの役割は裏方で参加者の世話をするだけのものでした。

1865年のアルジェリアはコレラ流行やイナゴの大発生で壊滅的な状況でした。デュナンの製粉会社も被害を真正面から受け、更に会社に貸付を行っていたクレディ・ジュネーヴ銀行が倒産し、デュナンは破産申告を余儀なくされます。デュナンの事業に投資した家族友人も巻き添えになり、彼は1868年、ジュネーヴの裁判所で詐欺の破産の判決を受けました。これによりデュナンは赤十字委員会からも社会からも追放されることになりました。次いでジュネーヴ青年キリスト教クラブからも除名され、デュナンは故郷ジュネーヴを去り、その後ジュネーヴの社交界に戻ることはありませんでした。モアニエはこの機会にデュナンが外部から援助を受けるのを妨げるため奔走していました。例えば、1867年のパリ万博でデュナン1人が受けるはずだった金メダルと賞金は国際委員会に授与され、ナポレオン3世のデュナンの借金の半分を肩代わりしたいという申し出もモアニエの計らいで水の泡となったのです。

デュナンはパリへ移り、ひっそりと生活を始めました。貧困の中でも理想を追い続け、仏独戦争中には暴力と武力衝突を回避するための同盟を組織し、また高等教育を受けなかった労働者を守るための同盟を提唱し、これがロンドンの国際労働者連盟発足につながりました。各地で演説も行い、戦争捕虜の権利改善や労働者の教育、アフリカ奴隷の解放などに努め、政治や学会の要人とも接触して活動を続けました。しかし1870年台中盤からのデュナンは資金難で貧困の限界生活を強いられ、各地を転々として施しを受ける毎日でした。1881年、デュナンはスイスの小さな町ハイデンを訪れ、ここに落ち着くことになりました。下宿や養護院での貧しい生活でしたが、彼はここで友人を見つけ、彼らの勧めで赤十字ハイデン支部を設立し、名誉会長に任命されます。

1895年9月、東スイス新聞の編集長であったゲオルグ・バウムベルガーはハイデンを散歩中に偶然デュナンと会い、これを機に赤十字創設者についての記事を「アンリ・デュナン − 赤十字の創設者」という題でドイツのグラフ雑誌「山と海」に掲載します。数日後には追加版がヨーロッパ中に出回り、デュナンの偉大な業績がやっと世間に知られることになりました。ジュネーヴ国際委員会は依然としてデュナンとの接触を避け続けましたが、デュナンはスイス国会やローマ教皇から表彰され、ロシア皇帝の母を始め多岐の資金援助を受けて経済状況も改善されていきました。ドイツ・シュトゥットガルトのギムナジウム教授ルドルフ・ミュラーは「赤十字とジュネーヴ条約成立の過程」という本の中でデュナンを改めて創立者として表に出し、「ソルフェリーノの思い出」の一部も取り入れました。デュナンはこの頃オーストリアの平和運動家ベルタ・フォン・ズットナーという女性と共に平和活動をしていました。彼はベルタやナイチンゲールのような女性を見て、平和活動においては女性のほうが男性より重要な役割を果たしていると考え、男女平等と女性の権利を求める運動も始めます。こうして1897年、「緑十字」という女性支援のための国際協会が誕生しました。

1901年12月10日、デュナンはオスロのノーベル賞選考委員会から次のような電報を受け取ります。
「ハイデンのアンリ・デュナン氏へ。ノルウェー政府のノーベル賞選考委員会はアンリ・デュナン氏とフレデリック・パシー氏にノーベル平和賞を授与する栄誉を賜り、深い敬意と誠意を貴殿に捧げます。」
フレデリック・パシーはフランスで最初の平和同盟を結成した人物で、デュナンと共に人道組織を率いたこともありました。こうしてデュナンは第一回ノーベル平和賞受賞者の1人となり、彼の長年の赤十字や人道活動の業績がやっと世界に認められることになったのです。賞金の10万4千スイスフランはノルウェーの銀行にデュナンのために振り込まれましたが、彼は自分のためにこのお金を使うことはありませんでした。デュナンは他にもいくつかの平和賞を受賞し、モアニエと共にハイデルベルク大学医学部の名誉博士に任命されます。しかし彼はハイデンに留まり療養生活を続けました。往年はうつ病と借金取りに追われる不安障害やジュネーヴ委員会時代に締め出されたトラウマに苦しんだといいます。1910年10月30日の夕刻、デュナンはハイデンで静かにその生涯を終えます。3日後、デュナンは葬儀なしでチューリヒの墓地に埋葬されました。平和賞その他の賞金は彼の遺言でハイデンの病院や各国の人道組織に寄付され、ハイデンには今日アンリ・デュナン記念館が立ち、デュナンに関する様々な資料が展示されています。

赤十字国際委員会は今では世界185カ国以上に支社を広げ、世界中で活動する大組織となりました。2度の世界大戦中を始め、世界中で紛争や自然災害時に人道、救助、支援活動をし、組織としてノーベル平和賞を3回受賞しています。

赤十字のマークは発足時の白地に赤い十字が今日まで使われていますが、イスラム教の国々ではキリスト教を連想させる十字に抵抗があるという意見があり、白地に三日月の「赤新月旗」が使われています。また、十字も新月も受け容れ難いという信仰がある地域では、2005年から白地に赤い菱形の中立マークの「赤水晶旗」が採用されています。


私が最初に赤十字の活動を自ら体験したのは、小学校の委員会活動でした。学級委員、放送委員、新聞委員などに混ざってJRC委員というかっこいい名前があったので、意味も知らずに志望すると、Junior Red Cross(青少年赤十字)委員会だったことが発覚。放課後や休み中に募金活動や清掃をした覚えがあります。活動の一環に夏休みの国際交流があり、年上の海外留学生と一緒に赤十字のビデオを見たりして、参加賞に赤十字のバッジとアンリ・デュナンのマスコットをもらったのがデュナンと私の最初の出会いでした。今後も赤十字社がデュナンの理想のもとに世界中で活躍してくれることを応援したいと思います。




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